制作経緯

希望と平和の種を世界へ

1945年8月6日、原爆が広島に投下された時、アオギリは爆心地から1.3kmにあった元広島逓信局の中庭で被爆しました。熱線と爆風を受けた爆心地側の幹半分は、焼けてえぐられていましたが、樹皮が傷口を包むように成長し、翌年の春に新芽を吹きました。75年は草木も生えないと言われた広島で、たくさんの被爆者に生きる希望と勇気を与えました。

1973年に広島平和記念公園に移植された被爆アオギリは、今も元気に広島を訪れる人々を迎え「平和の大切さ」と「いのちの尊さ」を伝えています。このアオギリの木の下で修学旅行生たちに被爆体験を語り続けた沼田鈴子さんは、「アオギリの語り部」として知られ、もの言えぬアオギリの木に代わって、自らの体験と共にあの日を伝え続けました。

「伝えなければ」から「伝えたい」へ

私が沼田鈴子さんと初めて会ったのは1986年、22歳の時でした。沼田さんが写っている原爆映画『にんげんをかえせ』(アメリカン・フィルムフェスティバル1984年度ブルーリボン賞受賞作品)をアメリカの学校や教会で上映する草の根ボランティア活動「ネバー・アゲイン・キャンペーン」に参加したことがきっかけでした。

1986年10月に単身渡米し、アラスカ・オレゴン・ネバダ・オハイオ・ニューヨーク等で1年間に280回のプレゼンテーションを行いました。渡米前の研修で、持参する原爆映画『にんげんをかえせ』に写っている被爆者の方々から体験を聞かせていただきました。その中のお一人が沼田さんでした。

それまで私にとってヒロシマ・ナガサキは、教科書の中の過去の出来事でした。しかし、たくさんの被爆者の方々から直接お話を聞かせていただく中で、今を生きる私たちが考えていかなければならない大切な問題であることに気づかされました。また同時に、「戦争や原爆の体験のない者に伝えられるのか?」という不安な気持ちでいっぱいになりました。渡米前の約1カ月間、私は広島のワールド・フレンドシップ・センターの館長ご夫妻のご自宅にホームステイさせていただき、ひと夏を広島で過ごしました。

「世界中にたくさんの友だちをつくってきてね」
「ヒロシマ・ナガサキを繰り返さないで!」
「憎しみではなく、愛の連鎖を生み出せる人になってください」
「授かった命を大切に生きてください!」

二度と思い出したくない、本当は忘れてしまいたい体験を語ってくださり「世界中の誰にも自分と同じ苦しみを受けさせたくない」と願う被爆者のメッセージは、今も心に深く刻まれています。

沼田さんをはじめ多くの被爆者との出会いの中で、「伝えなければ」という気負いは、「伝えたい」という思いへと変わっていきました。

被爆者のメッセージを世界へ

アメリカでは、「ヒロシマ・ナガサキ」と言えば「パールハーバー」が返ってくるよとよく言われます。アジアの人々からは、加害者としての日本の責任を問われることもありました。しかし、ヒロシマ・ナガサキの原爆映画『にんげんをかえせ』を上映し、被爆者からのメッセージを伝えた後、子供たちの反応は変わっていきました。

「今、被爆者はどんな気持ちで生きてるの?」
「被爆者は、僕たちのこと嫌い?」
「私たちができることは何だろう?」
「この映画を世界中のリーダーに見せてください!」
「ヒロシマ・ナガサキを二度と繰り返しちゃいけない!」
「大きくなったら大統領になって、核兵器を絶対になくすよ!」

今も、被爆者のメッセージを伝えたあの時の生徒たちの瞳を忘れることができません。

帰国後、異文化コミュニケーション誌の編集長をしていた私は、戦後50年となる1995年、日本に滞在する世界の人々に誌面で呼びかけ、自国の家族の戦争体験と共にヒロシマ・ナガサキの被爆体験を語り継ぐ多国籍出演者による日本語朗読劇『トンボが消えた日』を企画・プロデュースしました。

22歳の頃にアメリカで伝え歩いた被爆者の体験を元に台本が構成されました。第一回目の公演では、アメリカ・ドイツ・スペイン・中国・韓国・フィリピン・バングラデシュ・日本の8カ国の出演者が選ばれました。

出演者が自国の教科書を持ち寄り、それぞれ自分の国でどの様にヒロシマ・ナガサキが伝えられているかを語り合いました。また、国際電話で家族の戦争体験の聞き取りをしてもらいました。日本に原爆が投下された時、自分の両親や祖父母がどの様な状況にあり、何を感じたかについて聞いてもらい台本に加えました。

私自身がそうであったように、8カ国の出演者が被爆者に直接会って話を聞く機会を作りたいと思い、みんなを連れて広島を訪れ、沼田鈴子さんに会いに行きました。

歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝える

その後、仕事が忙しくなり、しばらくヒロシマ・ナガサキを伝える活動から離れていましたが、年を追うごとに、お世話になった被爆者の方々が亡くなっていく中で、何かせずにはいられない気持ちでした。この頃から、忘れられない被爆者の言葉をノートに書き留めながら、湧き上がる思いをメロディーにのせて、歌を作り始めました。

2008年8月6日、44歳の時、人生後半を生きるにあたり、原点を忘れずに生きていこうと心に誓い、音楽・映画・ライブ・出版などを通して国際平和に貢献する作品づくりを目指して「ミューズの里」という会社を設立しました。

会社の登記を済ませた日の夜、歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝える初のライブを開催しました。来場した80歳を超える戦争体験者の方が「このライブを一人でも多くの方に聴かせたい」と横浜の小学校内で企画してくださり、その後「いのちの音色」と名付けられたライブ活動は、日本全国に広がっていきました。

米国ワシントンに渡った被爆アオギリ2世

2009年、広島のライブで沼田鈴子さんと久々に再会しました。それまでずっと沼田さんとの待ち合わせは、広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下でしたが、高齢の沼田さんは、介護付きの老人ホームに入居していました。部屋に入ると、ベッドに横たわっていた沼田さんが満面の笑みで迎えてくれました。核なき世界の実現のために「100歳まで生きます!」と元気いっぱいでした。

以前のように頻繁に被爆体験を話しに行かれなくなった沼田さんに代わって、ライブ活動の中で被爆アオギリ2世・3世の植樹を呼びかけながら、沼田さんの被爆体験を伝えていくことになりました。

東京に戻ると、双葉を出したばかりの被爆アオギリ3世の小さな苗が沼田さんから届きました。そのかわいい苗を見て、思わず口ずさんだメロディーが沼田さんに捧げる歌「アオギリにたくして」となり、2009年にCDリリースしました。

2010年7月、広島フェニックスホールでの平和イベントの中で行われる沼田さんの87歳の誕生日のお祝いに招待され、共にライブ活動をしているギタリストの伊藤茂利さんと広島を訪れました。

大きなホールでの演奏の前に、沼田さんだけのために捧げたいという伊藤さんの思いから、誕生日の前日に沼田さんの部屋のベッドの横で『アオギリにたくして』を演奏しに行きました。伊藤さんの手を握りしめ、「頼んだよ。お願いね」と言って涙する沼田さんの姿に、私たちもこらえきれず涙が溢れました。

被爆アオギリ2世・3世の植樹を呼びかけながら、日本各地でのライブ活動を続ける中で、私たちは被爆アオギリに託された思いが広がる様子をカメラで撮影し始めました。

 

 

その年(2010年)の秋、米国ワシントンの(財)カーネギー地球物理学研究所で、被爆アオギリ2世の植樹と海外初のライブが行われることになりました。広島市長のメッセージと共に、沼田さんが最初の一堀りをし、伊藤さんと私が一掘りずつさせていただき、「微笑みの輪が広がっていきますように」と平和の祈りを込めて作られた仏師・川島康史さんの木彫りの像をお届けしました。

最後の言葉

2011年3月、沼田さんと被爆アオギリのドキュメンタリー映画の撮影のために広島へと向かいました。3.11東日本大震災の直後のことでした。沼田さんは、被災地の方々や福島原発を案じ、とても強い危機感を募らせていました。

同年6月、撮影クルーと共に広島入りすると、介護老人ホームに入居していた沼田さんの部屋の前には、何人もの人が彼女の話を聞くために面会に訪れていました。体調を崩していると聞いていたので、沼田さんの体が心配になり始め、その日の撮影は断念することにしました。

挨拶だけして帰ろうと様子を伺っていると、車椅子の沼田さんが部屋の入り口にある洗面台に手を洗いにやって来ました。水道の蛇口をひねる力がない様子を見て、私は駆け寄って手を差し伸べ、洗った手をタオルで拭いた後、車椅子をベッドの横まで押していきました。

その時、沼田さんは力の入らない握りこぶしを膝の上に立てて、落ち着いた声で言いました。「死ぬのは簡単だけど、生きて伝えないと…」。そして、「元気になったらアオギリの木の下で、子どもたちと一緒に歌おうね」と、部屋を出る私の背中に声をかけてくれた沼田さんの言葉が、私にとっての最後の言葉となりました。

 

翌月の7月12日、沼田さんは永眠されました。

 

ドキュメンタリー映画『いのちの音色』に託す思い

沼田さんが亡くなったその日、私はギタリストの伊藤さんと共に、広島女学院大学でのライブのため、広島に来ていました。ライブが終わり、沼田さんに捧げた歌『アオギリにたくして』が収録されているCDアルバム「Trusting Orizuru Cranes」発表の記者会見を行うために車で広島市役所へと向かう途中、沼田さんが被爆した元広島逓信局の前を通りかかりました。

まだ一度も訪れていなかったその場所に降り立ち、しばらくそこで時間を過ごしました。その後、記者会見場に到着すると、知り合いのカメラマンが急ぎ足で私たちの方に向かってきました。その日の朝、沼田さんが亡くなったことを知らされました。ライブが無事終わるまで、関係者が知らせないようにしてくれていたのです。東京に帰る前に、病院から葬儀場に移されてきた沼田さんとしばらくの間一緒に過ごし、最後の挨拶をしました。

「1000回ライブまで元気にがんばって。あなたに頼んだよ」と沼田さんに託されたギタリストの伊藤さんと共に、私たちはその後、沼田さんの前半生をモデルに描いた劇映画『アオギリにたくして』を製作し、2013年夏に劇場公開されました。第1回JASRAC音楽文化賞を受賞し、2016年にはアメリカでも上映され、今も日本全国・海外でロングラン上映を続けています。

映画『アオギリにたくして』公式サイト🌱
https://aogiri-movie.net

私たちは今も、沼田さんが応援してくださった、歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝えるライブ活動を続けています。そして、日本全国に広がる被爆アオギリ2世・3世の植樹と共に、各地で出会う平和の種を蒔く人々の姿に感動し、沼田さんの姿を重ね合わせながらカメラを回し始めたことから、新たな映画が生まれようとしています。

ミューズの里の第3作目となるドキュメンタリー映画『いのちの音色』は、被爆体験を語り続け「アオギリの語り部」と呼ばれた沼田鈴子さんが亡くなる4カ月前の映像メッセージに込められた思いと共に、1986年からの映像により構成されています。日本全国・世界に広がる被爆アオギリ2世・3世の植樹を追いながら、アオギリに託された思いを伝えていきます。希望と平和の種を蒔く人々の姿を通して、過去と未来をつなぐ 今を生きる私たちに出来ることを模索しながら、次世代に語り継ぐヒロシマ・ナガサキを描いていきます。

皆様のご支援・ご協力を何卒よろしくお願い申し上げます。

ドキュメンタリー映画『いのちの音色』
監督・プロデュサー:中村里美・伊藤茂利

◆製作・配給・著作:ミューズの里
◆撮影形態:ビデオデータ撮影
◆公開形態:DLP Blue Ray公開
◆上映時間:約100分(予定)
◆完成予定:2023年(予定)
◆公開予定:2024年春(予定)
日本全国各地・世界での上映を目指します。
※新型コロナウィルス感染症の影響でスケジュールが変更される場合がございます。その都度、状況を公式HP等より告知させていただきます。

ドキュメンタリー映画『いのちの音色』制作支援のお願い
https://musevoice.com/inochi/goods-2/

お問合せ:ミューズの里
E-mail: info@musevoice.com
E-mail: crosscultureplaza@yahoo.co.jp
TEL & FAX: 042-810-1100
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